伊勢街道からは少し外れるが、三重県熊野市にひっそりとたたずむ山城「赤木城」がある。石垣の美しさと苔むした静寂の風景が印象的な歴史的名所である。一見すると観光地化されていない素朴な城跡だが、その背後には激動の時代を生き抜いた武将・藤堂高虎の存在があった。

赤木城が築かれたのは、天正19年(1591)。時の関白・豊臣秀吉の命を受けた藤堂高虎が、紀州の一揆勢力を鎮圧する拠点として築いた城である。当時、この地域では「北山一揆」と呼ばれる反乱が頻発しており、秀吉はこれを徹底的に制圧しようとしていた。赤木城はその前線基地としての役割を担っていたのだ。

この城の最大の特徴は、その技巧的な石垣構造だ。標高200mの丘陵地に築かれたこの山城は、縄張り(設計)が巧妙で、わずか数年で築かれたとは思えない完成度。特に枡形虎口や隅角の算木積みといったディテールから、高虎の築城センスの高さがうかがえる。

しかし、赤木城には悲しい記憶も残る。北山一揆が鎮圧された後、多くの農民や僧侶たちが処刑され、その場に「処刑場跡」が残っている。現在でも城跡の一角には慰霊碑が建てられており、訪れる人々に歴史の重みを伝えている。

現代の赤木城は、戦国の喧騒を離れた静寂の地。春には桜、秋には紅葉が城跡を彩り、石垣に苔が生す光景はまるで時が止まったかのようだ。

山城好き、歴史ファン、静かな旅を好む人ならぜひ訪れたいスポットである。

赤木城の歴史的背景~九鬼水軍の拠点から藤堂高虎の改修へ~

赤木城は、戦国時代に九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆によって築かれたとされている。熊野灘に面したこの地は、水軍にとって重要な拠点であり、海上交通の要衝であった。

九鬼水軍は、織田信長に仕え、木津川口の戦いなどで活躍した。しかし、本能寺の変後、九鬼嘉隆は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍に与した。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、九鬼嘉隆は自害。その後、紀伊国を領した浅野氏が赤木城を管理した。

慶長6年(1601年)、藤堂高虎が伊勢・伊賀の領主となると、赤木城は藤堂氏の支配下に入った。高虎は、赤木城の重要性を認識し、大規模な改修に着手した。

築城の名手・藤堂高虎~その知略と築城技術~

高虎の築城の特徴は、徹底的な防御機能の重視にある。彼は、地形を最大限に活用し、石垣や堀、櫓などを巧みに配置することで、敵の侵入を困難にする城郭を築き上げた。

赤木城の改修においても、高虎は自身の築城技術を存分に発揮した。彼は、城の周囲に急峻な石垣を築き、堀を深くすることで、防御力を大幅に向上させた。また、城内には、兵糧庫や武器庫などを整備し、籠城戦にも対応できる体制を整えた。

赤木城の特徴~難攻不落の山城~

赤木城は、標高約360mの山頂に築かれた山城である。城の周囲は急峻な地形に囲まれており、天然の要害となっている。

高虎による改修によって、赤木城はさらに防御力を高めた。城の周囲には、高さ約6mの石垣が築かれ、敵の侵入を阻んでいる。また、城内には、本丸、二の丸、三の丸などの曲輪が配置され、敵を段階的に迎え撃つことができるようになっている。

赤木城の最大の特徴は、その石垣の美しさにありる。高虎は、石垣の石を一つ一つ丁寧に積み上げ、美しい曲線を描く石垣を築き上げた。

~廃城から史跡へ~

江戸時代に入ると、赤木城は重要性を失い、寛永13年(1636年)に廃城となった。その後、城跡は放置され、荒廃が進んだ。

しかし、近年、赤木城の歴史的価値が見直され、史跡として整備が進められている。城跡には、石垣や堀などが残っており、当時の面影を偲ぶことができる。