関ヶ原合戦
関ヶ原戦当時の安濃津城主は富田信高であった。彼も東軍に属し家康に従って下野小山まで出かけていた。その留守に毛利秀元、吉川広家、宍戸元次、鍋島勝茂、龍造寺高房、長宗我部盛親、毛利勝永、安国寺恵瓊、長束正家などの西軍の総勢三万が攻め寄せてきて城を包囲してしまった。

急をきいて下野から馳せもどった富田信高は、三河から船で津の贅崎に着き城中に入った。 また奄芸郡上野城主の分部光嘉も一緒に安濃津城に入って協力し防戦につとめたが、手兵はわずかに一千七百。押し寄せた西軍はその十数倍。城の外郭を陥れて本丸に迫り、幾重にも囲んだ。

信高もその夫人も甲冑に身を固めて陣頭に立ち必死に戦った。それでも討死するもの続出し、五百八十人にのぼる手兵を失った。 このとき高野山の木食上人の仲裁により、信高は城を西軍に明け渡し、一身田の高田派本山専修寺に入って剃髪し、さらに高野山に隠透した。

関ヶ原戦後、家康は信高の龍城戦の功績を賞して安濃津城主として復帰させたが、高虎の入封にともない、伊予宇和島十二万石の城主に転封を命じた。そこで高虎は、津城への入城に先だち、家臣の小野半左衛門を津に派遣し、富田信高の重臣から領土の引渡しをうけ、侍屋敷などの地割などをさせておき、彼自身は、ひとまず大手筋の分部町の鶴屋久兵衛方で休泊してから、おもむろに入城することにした。

安濃津城入城
高虎が安濃津城に入城したのは、慶長十三年十月八日のことである。彼は上野城を有事のときの根拠とし、津城を平時の居城として、藩士を両城に分置する方針を定めていた。

彼が入城したときの津の町は、関ヶ原戦の直前の籠城戦のときの傷がまだ癒えず、戸数五百余の粗末な家の集まりであった。そこで待屋敷の地割のところへ藩士の住宅を建てさせ、伊予からついてきた商人たちの住所として、岩田村のうちに伊予町をつくり、これを無税地として、伊予からついてきた加藤甚右衛門にその民政を支配させることとし、旧来の津町は、もとのとおり伊藤又五郎を町年寄に任命した。この加藤甚右衛門は加藤嘉明の一族である。

嘉明は朝鮮における海戦の折、自分が功名第一だと誇って高虎にケチをつけくて以来不仲になっていた。しかも喜明は、高虎の養子高吉が預かっている大洲城に隣接した松前城十万石の領まであった。

高虎が国を離れで高吉に支配をまかせたとたんに、隣接地の住民同士が争いを始めた。 もともと上高吉間の住民が事を起こしたものだったので、高吉は事の不始末を恥じて身を引き謹慎した。このことを知ったとき、高虎は激怒したが、家康は、「大事の前の小事だ」と嘉明と高虎の仲をとりもち、高吉を二万石格の大名に任じ、 「今治をしっかり守れ」と高吉を激励してくれたのである。

この高吉と嘉明の争いのあったとき、嘉明の領下から藤堂領へ逃げこんできたのが加藤甚右衛門であり、それ以来、藤堂家の家臣になっていた。

津城に入った高虎は、赤尾久右衛門、石田多左衛門を津城の奉行職に任命し、町民に対し、奉行の名で布告を出したが、その中には鹿、猪、牛、犬の肉は一切食べてはならぬ、とか、山中で鉄砲を撃って狩りをしてもよいが、平地では鉄砲を撃ってはならぬなど、こまごましたところまで規制している。また商業地と農業地をはっきり区別し、農村で商業を営むことを厳禁した。

高虎は、かねてから伊勢神宮を崇敬していたので、安濃郡納所村など十一ヵ村七十四石余の田に同都観音寺村など五カ村二十四石の地を加えて、神田に指定し、外宮の当直長官檜垣常晨に寄付した。その水田は不浄をさけて人力だけで耕作させ、毎年十一月には、檜垣氏の被官が来て神事をおこなったのち、納所村の御倉堂に米を収納し、阿漕浦から海路山田へ輸送した。この神事は幕末の廃藩までつづいた。

彼はまた、津城に入城したとき、
「あちらの方角にある観音堂は、この城の鬼門にあり王城の比叡山と同じことである」
といって真っ先に参詣し、太刀や馬代を献納し、祈禱をよくするようにと命じた。

この年の末になって、伊予今治港を出港した船団が、家臣団や家族、武具、諸道具を積んで津に到着した。この大船団は、いったん堺港に碇泊し、そこで二団に分れ、一団は堺で上陸して陸路伊賀へ、一団は熊野灘から伊勢湾に入ってきて津に上陸した。

津に着いた船団は、家康にもらった日本丸が主力だが、大船だったため、港口に入れず、沖で荷物を解き、小舟に積みかえて運ぶという有様だったので、その後、高虎は港湾の改修にも大いに力を入れた。

高虎は慶長十五年には家康の命令で丹波亀山城の造営に従事し、さらに今治の天守閣を解体して、その木材を大坂の倉庫に貯蔵してあったのを運ばせて、この城の五層の天守閣を建設した。そして、十月には帰国して、翌十六年正月には、幕府の許可をうけて、津、上野両城の修理工事を起こした。  この修理設計は、すでに二年前にできていて、長谷川藤十郎に命じて櫓、多門などの木組を造成させていた。

両城の設計や工事の進捗は、細大もらさず高虎自身がこれに当り 、彼が家康の命令で領外に出ているときでも、一々書類で報告させ、みずから手書して工事の施工に指示を与えた。工事に従事したものは、 藩士から銃卒にいたるまで、高虎が和歌山城、宇和島城、膳所城、 江戸城の造成や修築に活躍したとき、その指示下にあって、いくたびも経験をつみ、熟練した者ばかりである。 したがって、高虎の指揮に従い、工事は敏速に進み、慶長十八年(一六一三)までに両城とも竣工した。

ことに伊賀上野城の改築は、津城にくらべ規模が大きく、数倍の難工事であった。高虎が、この困難をおかして両城の工事を同時に起こし、短時日で完工させたのは、目前に迫った「大坂事変」を予想してのことだったことは、改めて書くまでもない。事実、両城の竣工した翌年―十九年の末、大坂冬の陣が起こった。

両城の造成と城下町づくり
伊賀上野城―本城の西の空地を築きあげ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押回して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、これまでの本城と合わせて新たに本丸とし、南面にして南北に二口を開く。南側の東西百三十五間とし、北側の車四百三十一間とした。東側は空濠ともに旧きを用い、西側には新たに南北百三十九間のものを掘った。

石垣積みには、高虎の郷里の近江の穴太衆を多数起用した。渡来人系の技術集団で、比叡山の麓に住み、三千的といわれる宿院の石垣づくりに働いていたのを、信長の時代から城の石垣つくりに穴太積みが利用されており、高虎も築城を手がけるようになってから、盛んに彼らを動員した。

この高石垣は大坂城の城塁よりも見事で、筒井時代は大坂城を守るための出城であったが、高虎の築いたのは大坂城を攻めるための城塞であった。 天守開は五層として東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設には、五人の大工棟梁の分担工事として工を競わすなどの工夫がなされたが、完成間近い慶長十長年九月二日の大暴風雨で三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ちたのち崩壊、大工、人夫育わせて百八十余が死亡、多数の負傷者が出た。こののち、再建はされなかった。

天守閣とともに本丸には櫓が建てられなかったが、外塀の土塁には、二層櫓二棟、単層櫓八棟が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大寺門、西大手門も建てられた。本丸の西、内堀をへだてた台地の一郭には高虎の伊賀での屋敷が建てられ、御殿屋敷とか御殿とか呼ばれた。

城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、二の町筋、三の町筋が家臣のための商人町とされた。 三の町筋の南は侍町の忍町、鉄砲町が置かれ、その南は農家であったが、しだいに町が形成され、城の東には東の枝町と呼ばれた赤坂町、農人町、田端町があった。

この伊賀上野城修築の指揮をしているとき、高虎は大和屋忠右衛門という旧知の男に出会った。
「お前も士分に取立ててやるから仕官せい」とすすめたが、その男は、「わしは農民として伊賀の地に根を下ろしたい」
「そうか、わしの領内を少しでも肥沃の地にしてくれるのも大切なことだ。お前にこの一帯の草刈りを永代許すことにしよう」
高虎が、この男と話しながら腰をおろしていた石が、「高虎腰掛石」として子孫の上野市北川勝陌さん方に残っている。

津城
まず本丸の北を拡張、三層櫓二棟、二層櫓格三棟を建てた。織田信包の建てた五層の天守閣は関ヶ原戦で焼失したので、天守台は築き直したが天守閣は建てなかった。さらに外郭を広めて北口に京口門、西に伊賀口門、南に中島口門をつくり、外郭の土塁の上には十一の単層櫓が建てられた。

高虎が朝鮮に出陣した際、帰りの空船に石を積んで帰っていたので、朝鮮の石が城つくりに多数使用された。 武家屋敷は、城の北、西、南の三対に集め、それまで町はずれの東側を通っていた参宮街道を引き入れて城下町を通るように変更した。

城下町の東側を堀川で囲み、その外に七つの寺を並べて防禦の最前線とし、武家屋敷の西側一帯の湿田も防禦のため町家を建てることを禁止した。

参宮街道を城下に取り入れた結果、沿道には宿屋や商店が軒を並べ、「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」とうたわれるように繁盛することになった。
(出典: 徳永真一郎「藤堂高虎」/藤田達生「江戸時代の設計者」)