高虎が大御所家康の駿府城に呼び出されて、そこに滞在している将軍秀忠から伊賀一国十五万五百四十石、伊勢安濃津ならびに一志郡で五万四百十石、それに伊予越智郡で二万石、合わせて二十二万九百五十石の地に転封を命じられたのは、慶長十三年(1608)八月二十五日のことである。

 

秀忠のそばには大御所家康も燃えていて、こう言った。
「伊賀は京大坂に近く、畿内の藩屛であり、国境は驗組で守城堅固の地じゃ。ことに上野は奥州の仙台・薩摩の鹿児島とともに日本三大城の一つじゃ。紀州、吉野、十津川にひそむ豊臣武士の叛乱を押えるとともに、万一大坂攻めに徳川軍が敗れたる場合は、わしは上野の城に引き取り、秀忠は彦根城に入って防戦し再起を期するつもりじゃ。お前の得意の築城術を駆使して、堅固な線をつくってくれい」

大坂城を本拠として動こうとしない、淀殿、秀頼母子の討伐の意図を明らさまに打ち明けての言葉であった。

 

高虎は信任の厚さに胸を熱くしながら、
「不束者にはござりますが、高虎、身命を投げうって大命に応えるべく努める覚悟にござります」

「うむ、たのむぞ。お前はいつか堺が欲しいと言うたことがあったが、あそこは大坂城とともに幕府の直轄の地にするつもりじゃ。その代りお前は津にあって伊勢水軍を押さえてくれい。 また伊賀忍者どもを手なずけてもらわねばならぬ。いろいろと苦労があろうが、わしはお前を信じておるぞ」

 

「もったいないお言葉。高虎は、天下和平のため一身を託するのは大御所様よりほかにないと、早くから思い定めておりました」
「お前の気持ちは、よくわかっておる」
家康は、うれしげにうなずいた。

六十七歳の家康と五十三歳の高虎は、こうしてお互いの信頼を厚くしていった。そんな二人を、そばにいる秀忠は、これこそ君臣一如の姿だ、と深く心に刻んだ。

 

伊賀上野城史は、高虎の伊賀、伊勢への転封について次のように論評している。

加封大名といえども、豊臣系大名の全てが畿内周辺の地を離れていくなかにあって、高虎の四国の僻地から伊勢伊賀への転移は実に異彩だったといえよう。この異例の論功行賞には関ヶ原戦以来忠誠絶大にて両君家康秀忠深慮ありてのことなりといわれるごとく、秀吉の没後は専ら家康に心をよせ、豊臣大名の動向を詳らかに家康のもとへ報告し、反家康勢力と思しき大名の内偵懐柔と情報収集に卓抜な働きをしたことが知られている。

 

戦国大名もいくつかのタイプがある。高虎は洞察力の優れた豪放な理想主義者であった。常に流動的に情勢を察知し、生きる道を心得としてわきまえていた。そのためには際どい演出も平然とやってのけた。

 

高虎は秀吉の没後、己を活かしてくれる英雄は家康だろうと考えていた。そのため、家康に対してはいかなる忠節も惜しまなかった。伊賀へ転ずる高虎に対して家康は、後に豊臣の討滅をはかろうとする作戦要領までも細かく指示した。また伊賀の地理的環境について戦略上の要旨も伝えた。

 

家康が紀州、吉野、十津川の武族や一揆の蜂起を警戒したのは、大坂城の豊臣勢力が、この地に逃れて一揆とともに蜂起すれば、家康がめざす豊臣は長期にわたって持久戦となり、家康存命中に不可能な状態に追い込まれる。家康はそのことを最も懸念していたのである。

 

前伊賀上野城主筒井定次は関ヶ原戦には徳川に属して、それなりの戦功があったが、その後、秀頼の龍臣大野治長、古田織部らと交誼をつづけ、上杉景勝らと大坂城に参向して秀頼に年賀の礼をとるなどの行為があり、義父の順慶に似て日和見的態度が多かった。そのため家臣も徳川派と豊臣派に分裂して、争いが絶えなかった。それを苦々しく思っていた家康は、定次はキリシタンである、という家老の中ノ坊飛騨からの訴えを好機として改易に踏み切った

 

幕府は桑名城主本多忠勝、加納城主松平忠政、彦根城主井伊直継の三人を城請取役に任命し、七月十日上野城を接収させた。城を出た筒井定次は、陸奥岩城十万石の鳥居忠政に預けられたが、大阪城の豊臣方と連絡をとっていたことが発覚、大坂夏の陣直前の元和元年三月五日切腹を命ぜられた。

 

駿河から急いで今治に帰った高虎は、養子の高吉を伊予国のうち二万石の領主として今治城におらせ、一族郎党らをひきいて瀬戸内海を東航して大坂に上陸、笠置越えで伊賀へ入国した。大坂城攻めのことコースを選んだわわけである。 ことを想定し、地形、用兵の利便などを事前に把握しておくために、あえて逆コースを選んだわけである。入国したの は九月二十八日のことで、転封を命ぜられてから一カ月しかたっておらず、当時としては驚くべき急ピッチであった。

 

高虎は入国後直ちに伊賀の国中を巡見し、藤堂出雲、式部、新七郎、梅原勝右衛門らの重臣をあつめて、伊賀伊勢就封にいたった家康の上意を伝え、「われわれが紀州と尾州のの中間におかれたのは、大御所さまの意のあるところと察し、部下にもその覚悟をさせるやうに。津の城は周囲に嶮岨もなくて不堅固な平城である。当分の間の休憩所だと思え。伊賀は秘蔵の国である。よく治めれば米も出来る、毎年蓄えおけば兵糧にも事欠かなくなるであろう。伊賀の七つ口に巧者なる鉄砲頭七人に五十丁差出しお何の気づかいもあるまい。事欠くものは塩ばかりなり。目にたたぬようにつづけて塩を買い入れておくように」と命じた。

 

伊賀忍者の掌握
伊賀忍者と家康は因縁浅からぬものがあった。家康の祖父清康の時代に、服部石見守(半三)保長が、150名の伊賀忍者を連れてきて岡崎城下に住み着き伊賀町をつくっていた。保長の子の半蔵正成の初陣は、永禄5年(1562)家康が三河上ノ郷城(宇土城)を攻めたときで半蔵16歳、家康21歳であった。本能寺の変のとき、30数名の家臣を連れて泉州堺を見物中だった家康は、慌てて敵中を突破して三河の岡崎に逃げ帰るがその案内役をつとめたのが、家臣の中に加わっていた服部半蔵であった。

半蔵は、宇治田原~甲賀郡信楽の多羅尾を経て伊賀の鹿伏越えで伊勢国に入り、白子の浜から常滑、半田を経て無事に家康一行を岡崎に帰らせた。文禄の朝鮮の役にも、肥前名護屋まで出陣した家康に伊賀同心を率いて随行した。そして家康が江戸に落ち着くと、麹町に屋敷をもらって江戸城の警備にあたった。高虎は半蔵正成の血縁者で、伊賀国余野に住む郷士(忍家)保田采女を召し出して藤堂姓と家老職を与え伊賀の国政に参画させた。その他の忍家の名門は士分に取り立て、士分に次ぐ家格の忍者は、在郷のまま無足人に指定して名字帯刀を許し、庄屋、名主の上に置き貢納に恩典を与える代わりに、藪廻り、山廻り、狼煙役などの役目を申し付けた。

 

残余の軽輩の忍者(下忍)は、主だった家臣の配下におき、上野城下に忍町をつくって住まわせた。そして、伊賀付差出帳を整備して幕府の求めに応じて彼らを江戸に送り込むというからくりで、幕府の隠密の供給源となった。

 

一介の地侍である保田采女を起用して、歴戦の重臣の上に置き、伊賀藩政の枢機に参画させるという措置は大英断であった。高虎が伊賀の地侍の宣撫が、伊賀統治の根本方針であると考えたからで、それはまさしく家康の秘命でもあった。20数年前の天正七年(1579)と天正九年の二回に亘り織田信長・信雄父子が伊賀国に侵入(天正伊賀の乱)して伊賀忍者の皆殺し作戦を展開したことを思うと天地の差異といえる。高虎は、こうして伊賀忍者を完全に掌握し、重要な情報の供給源としたのである。