家康との出会い
紀州・四国を制圧し、関白に就任して天下を取ったと自負する秀吉にとって、未だに自分と対等の立場を変えない家康の存在は最も気になるものであった。何とかして、諸大名の見ている前で、家康を家臣として跪かせたい、再三再四入京を促す使者を送っていたが、家康は、11歳の次男於義丸を人質として送り込んできただけで、容易に腰を上げようとはしなかった。

秀吉は、ここで一計を案じた。信長の要請により浜名湖畔の富塚で正室の築山御前を殺害させたため正室のいなかった家康につけこみ、妹を後妻に押し付けむりやり義兄弟になろうとした。家康は、拒絶する理由もないので、これを承諾した。こうして秀吉の義弟となった家康だが、それでもなお、秀吉の上洛の要請においそれと腰を上げようとしなかった。

そんな家康にしびれを切らした秀吉は、ついに自分の母である大政所を人質として岡崎にやることを決意した。そのことを知ったとき、秀長は初めて兄に反対した。「天下人が、その下なる者に人質を出した例は聞いたことがござりませぬ。大政所さまは殿下の母上であり、この秀長の母でもござります。70歳に余る老婆を人質にして渡すなぞもってのほか。上杉としめし合わせて堂々と家康を討伐なさりませ。この秀長よろこんで先陣仕ります」

日ごろ秀吉に対し何ひとつ抗弁したことがなかった秀長が珍しく血相を変えて詰め寄るので、そばにいた蜂須賀小六正勝はじめ重臣たちは秀吉の怒りが爆発せぬかとはらはらしていた。秀吉は、8月26日、浅野長政を使者として岡崎へ送り、大政所を人質として差し出す故、是非上洛されたいと家康に申し入れた。

これ以上秀吉を怒らせることは得策ではないと判断した家康は、10月14日、京へ向かうべく浜松を出発した。大政所は岡崎へ下向するため同月13日、京都の聚楽第を出発した。同月18日、西から来た大政所の行列が岡崎城に着き、東から来た家康の行列も同じ日に岡崎城に入り、城内で両者の対面が行われた。これに先立ち去る5月に浜松の家康に輿入れしていた朝日姫も家康に同行しており、半年ぶりに母娘が対面した。抱き合って泣いて喜ぶ母と娘の姿を見て、徳川方は、大政所は秀吉の本物の母親であることを確認したという。

家康は、20日に浜松を出発して24日京都に入り、26日大坂に着いて秀長の邸に宿泊した。その夜、前触れもなく秀吉が家康の宿舎にやってきて天下統一について協力を求め、家康はこれを承諾した。そして、翌日、大阪城本丸での儀式のために入念な打ち合わせをした。

諸大名が居並ぶ中で、謁見の礼をを取る家康に、秀吉が「上洛、大儀であった」と声をかけると、家康は、打ち合わせ通りに秀吉が着込んでいた「陣羽織を賜りたい」と申し出た。秀吉は、うれしそうに「義弟は、わしに、今後、陣羽織を着せないつもりらしい」と甲高い声で言い、みずから陣羽織を脱いで、家康の肩に帰せかけた。これからは、秀吉の家臣となって合戦に出ていき、秀吉をわずらわすことはない、ということを諸大名に示した大芝居であった。

11月、家康は京都に引き返し、二条堀川に秀吉が建ててくれた我が邸に入った。母屋を秀吉、厨と門を秀長が費用を分担し、高虎が作事奉行となって完工したばかりの邸であった。家康は、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政といった家臣を従えて、奥書院に落ち着くと、すぐに作事奉行を呼べと命じた。

高虎が家康の前にかしこまると、
「この邸は、関白殿下がわれらにお示しあった設計図にはない外構えや外門を、貴殿の費用で構築されたそうだが、何ゆえの作事であるか承りたい」と家康。

ずばりと問われて高虎は、
「ご不審につきお答え申します。仰せの通り設計図にはない造作および外構え、外門については、それがし一存にて作事いたしました。そのわけは、京洛はこのところ平穏とは申せ、いつなんどき不慮のことなしとは計り難く存じます。天下に名を知られた徳川様のお邸が、公家屋敷の如くであっては、徳川様のご迷惑、ひいてはまた主人秀長の不行き届き、関白殿下のご面目にもかかわると存じ、出過ぎ者とのお怒りを承知のうえ、てまえ一存にて手を加えさせて頂きました。ご不興お怒り、ご容赦なくば、この場でお手討ち下さいましても、高虎、なんのお恨みもいたしませぬ」

骨太で頑丈そうな巨躯を真っ直ぐに起こし、太い眉の下の大きな眼で、上段にひかえる家康の顔を仰いだ。いかにも歴戦の勇士と言った風貌である。(これを機会にお近づきになりたい)という下心があって、独断で設計変更をやったことなど、おくびにも出さなかった。

家康は、大きくうなずき、
「いや、高虎殿とやら、これはわれらの言い過ぎ、
お許し願いたい。一面識もないそれがしへのお心遣い嬉しく思う」と感謝の言葉を述べると、

「恐れながら、それがしにとりましては、殿は一面識もないことはござりませぬ。去る元亀元年の姉川の合戦が、それがし15歳の初陣でござりました。岡山の陣所で槍をふるって戦っておられた殿のお姿を、天晴れたのもしき大将よと浅井の陣中より望見し、深く心に刻みつけておりました」

「なんだ、そちは16年前に浅井の陣中におったのか。あのとき浅井軍は、姉川を押し渡ってわが陣所近くに迫って参ったでのう。忘れ得ぬ思い出じゃ。今日からは、わしが、名前を覚えておくぞ」

「ありがたきしあわせにござります」
平グモのように這いつくばった高虎の胸の中に、形容しがたい、温かいものが流れ込んでくるのを覚えた。この日の高虎と家康の出会いが、二人の晩年に大きな影響を与えるとは、どちらも気付かぬことであった。