五人目の主君
信長の浅井長政討滅に抜群の功績のあった木下藤吉郎秀吉は、浅井の旧領・湖北三郡一二万石を与えられ小谷城主となったが、間もなくその城を湖岸の今浜に移し、信長の名に因んで長浜と改め、長浜城を築いて羽柴筑前守と称し、威勢を誇っていた。

秀吉の三つ下の異父弟・小一郎秀長は、秀吉の墨股城築城当時から、尾張中村の百姓をやめてその配下にに加わり、信長の岐阜城攻めに抜群の働きをして名を知られ、秀吉の片腕として活躍していた。その秀長に、大木長右衛エ門が藤堂与吉のことを話したら、「召し抱えてもよい」と言っているという。

与吉はさっそく長浜城へ出かけた。いかにも実直で温厚そうな人物であったが、眼だけは鋭く、人の心の奥底まで見透かすような光を感じた。秀長は、与吉がまだ何も言わぬ先に「おう、お前が藤堂か。武勇の噂はきいておる。見るからに頼もしげな若者じゃ。とりあえず三〇〇石を給するが、わしに仕えてみるか」とこともなげに言ってのけた。

与吉は目のくらむような感動に打たれて、「はッ、よろしくお願いいたします」と答えて、その場に這いつくばった。このとき、与吉は21歳、秀長36歳。名馬がやっと名伯楽に巡り合った瞬間であった。与吉の心の中は、「秀長さまは、百姓の出だけに織田のように門閥を鼻にかけて、家柄のない者を使い捨てにするようなお方ではない。どうやらわしも、よき主人に巡りあえたようだ」 これを機に与吉は与右衛と改名した。

築城を学ぶ
このとき天正四年(1576)という時期は、秀吉の長浜築城がほぼ完工し、信長の安土築城が始まったばかりのときであった、安土築城は、佐和山城主の丹羽長秀が総奉行となっておこなわれていたが、近距離にある長浜城からも多数の応援隊が出動していた。与右衛門の最初の任務は、その応援隊に加わって、人夫の監督をすることだった。高虎の築城への関りはこの時に始まった。

安土城の天守閣の建築設計を担当しているのは、与右衛門の生地の甲良郡在士村の隣の法養寺村出身の甲良三郎左衛門光弘であった。京都の建仁寺門前に住んで、番匠として腕を振るっている大工棟梁であった。与右衛門が甲良光弘の普請場を訪れて、同じ甲良の出身だと名乗ると、「ああ、藤堂さまのご子息で!」と親密の情を示した。それ以後、与右衛門は光弘の普請場に度々出入りして寺大工の仕事ぶりを熱心に学んだ。

穴太衆
城の石垣を積んでいる穴太衆とも親しくした。穴太衆は近江・坂本の穴太に住んで、800年も前から比叡山の三塔の谷の山肌に石垣を積み、延暦寺の寺院や宿坊の建築の基礎作りに精を出している技術集団である。信長が足利将軍義昭のため二条城を築いたときに徴用され、堅牢無比の石垣を築いたことから認められ、今度の安土築城にも徴用されたのであった。

与右衛門は、信長の焼き討ちによって全山赤裸になった叡山に登り、そこの残っている穴太衆の積んだ石垣を見て、信長が二条城の石垣積みに利用した理由がわかったような気がした。穴太衆が実際に安土城の石垣積みに働いている姿を見て「ゴボウ積み」と言われる、一見無造作な積み方のうちにも理にかなったやり方に異常とも思える興味を覚えた。そして、穴太衆の親方である佐治兵衛とも、同じ近江出身ということでしたく交わった。

それに、安土城の縄張り(地割り)をした、坂本城主明智光秀の手法を、実施に自分の眼で見たことも、与右衛門のためには大いに参考になった。彼は飢えた犬が餌を貪るように建築現場を歩き回り、ここぞと感じた要点を帳面に筆記した。そんな姿が、主人秀長の目に留まり、「与右衛門、何をしておるのだ」と聞かれた。

「築城のあれこれを学んでおります」と正直に答えた。
「武士は、槍先の功名だけを考えておればよいのではないか」
「はい、仰せのごとく、槍先の功名も大切でござりますが、城こそは武将の命運を決する、大切な拠り所でござります」「攻められる立場になって、どうすれば守りを固くできるかと工夫をしております」
「なるほどお前は変わっておるのう。気づいたことがあればもうしてみい」
「帳簿は大工頭甲良広どのの率いる建仁寺大工のように、元帳のほかに、米は米、木材は木材、金銭は金銭と言う風に別々の帳簿につけときどき元帳と照合する方が正確になります」
槍を使わせたら、抜群の腕を見せる与右衛門に帳簿の整備を命じたところに、秀長の頭脳の柔軟性がうかがわれる。
かくして、高虎の築城への情熱は留まるところを知らず続いて行った。