伊勢街道について調べ始めて、桑名あたりから徐々に南下、津城に辿り着いたところで、藤堂高虎という名前に出会った。実は、熊野の赤木城を建てた築城名人というくらいしか知らなかったので少し調べたいと思っていたのだ。

高虎には、仕える主人を何度も変えたことで、日和見大名とかゴマすり大名とかの悪名の如き世評がある。これは、人気の歴史小説作家、司馬遼太郎によるところが大きいと思われる。「二君に仕えず」という観念がよしとされた時代の考えからすると当然であろう。

しかし、腹巻と草摺の具足をつけ、一筋の槍を持っていれば、何処でも雇ってくれた戦国乱世の時代である。末は一国一城の主と夢見ていた若者にとって、勇猛果敢な男気と共に、主人が一生涯仕える人物かどうかを見極めることのできる能力は必須の要件であったろう。この点で高虎は人一倍優れた才能の持ち主だったと筆者は思う。

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高虎の出自
高虎が誕生したのは、近江国犬上郡藤堂村(滋賀県甲良町)である。江戸時代には彦根藩領となるが、 二代藩主井伊直孝が藤堂姓を尊んで、寛永年間に村名を在士村へと改めたという。現在は高虎の生誕地と伝わる在士八幡神社の東に高虎を顕彰した公園があり、そこには津城本丸にあるのと同じ騎馬スタイルの高虎の銅像がある。

藤堂氏であるが、村名が姓になっているように、この藤堂村周辺の代表的な有力者すなわち土豪層だったようだ。現地には、「城の内」などの地名は残っているが、城の遺構は確認できなかった。父親は高虎を逆にした「虎高」で、上杉謙信に仕えたといわれ、有力な大名を求めて歩いた武士だったらしい。三井出羽守乗緝の子息であった彼は藤堂良隆(忠高)の婿となった。

母親は 「とら」で、後の妙清夫人である。近隣の多賀大社の神官の多賀良氏の息女で、藤堂良隆の養女となり、虎高と結婚した。多賀大社は、「近江のお伊勢さん」といわれるほどの立派な神社で、現在も中世以来の古文書群「多賀神社文書」を伝えている。

高虎は、六尺ニ寸つまり190センチほどもある大男だったといわれており、相当に腕っぷしの強い人だった。子息の高次もそれぐらい背があったらしいからよほど体格の良い家系だったと思われる。

「渡り奉公人」時代
高虎は、北近江の戦国大名浅井長政に仕えるが、途中で刃傷事件を起こして出奔してしまう。それから、北近江の山本山城主の阿閉氏、そして佐和山城主の磯野氏、さらには信長の弟信行の子息で湖西の大溝城主だった織田(津田)信澄に仕える。このように、高虎は近江国内の領主を転々と渡り歩いた。若者にありがちだな向こう意気の強さが災いして仕官先で度々トラブルを起こし、なかなかうまくいかない時期だった。

浅井長政は、年来の朝倉氏との関係を絶つことができず、浅井―織田同盟を破棄して信長と戦うが、結局は天正元年(1573)に滅亡してしまう。その後任大名が、信長から浅井氏の旧領である浅井・伊香・坂田の湖北三郡を預かった羽柴秀吉だった。

秀吉は、その能力を信長から見出されて足軽から大名にまで取り立てられた武将である。高虎は、秀吉の異父弟羽柴秀長に仕える。天正四年の二十一歳の時のことで、三百石を与えられ与右衛門と称した。なかなかの待遇だが、秀吉・秀長兄弟としても領内の有力土豪層を手なずける必要があったのだろう。