元和5年(1619)、徳川家康の子頼宣が駿河国駿府より紀伊和歌山に入封、55万5千石の紀州藩が誕生した。紀伊一国のほか、伊勢国内に勢州三領(松坂、白子、田丸)と呼ばれる17万9千石を領有し、松坂には、勢州三領の中心として城代が置かれ、勢州領内を統治した。
伊勢街道の宿場町の一つで伊勢湾に面した港町・白子は、海運の拠点としても栄え、旅籠や茶屋などが軒を連ね、賑わいを見せた。白子が他の宿場町と違っていたのは、新宮港と繋がりがあり紀州藩と深い関わりを持っていたことである。
海の道が結ぶ交易と交流
まず、白子港は紀州藩との交易拠点として重要な役割を果たしていた。紀州藩は、豊かな森林資源や海産物を有しており、それらの物資を新宮港から白子港経由で江戸や上方(大阪・京都)へ輸送していた。また、木材、海産物(特に鰹節)、みかんなどが白子港に運び込まれた。これらの物資は、伊勢街道を通って、伊勢神宮周辺やその他の地域へと運ばれた。
また、白子港からは、伊勢地方の特産品である伊勢木綿や伊勢茶などが江戸へと運ばれた。これらの物資は、紀州藩の経済を支える重要な役割を果たしていた。
海路を利用した大名行列
江戸時代、大名は一年おきに江戸と領地を往復する参勤交代が義務付けられていた。紀州藩は、紀州街道を利用して大坂へ向かい、京街道を経て東海道を江戸へ向うルートが一般的だったが、元禄14年以前は、伊勢路を通っていたという記録もある。
つまり、紀州藩は、この参勤交代の際に白子港を利用していた。紀州藩は、海路を利用して江戸へ向かう際、白子港には、紀州藩の大名行列が立ち寄り、宿場町は大いに賑わいを見せた。大名行列が立ち寄ると、多くの物資や食料が必要となり、宿場町は特需に沸いたのである。結果、紀州藩の参勤交代は、白子港の経済に大きな影響を与えた。現在でも、白子には、当時の面影を残す古い町並みが残っている。白子港を訪れることで、こんなところでも、江戸時代の歴史や文化に触れることができる。

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