おはらい町から宇治橋へ
猿田彦神社への参拝を終えて愈々内宮に向かうことに。事前に入手していた地図を見るとここからはもうおはらい町には近いようだ。バスに乗ってもよいのだが、朝食でお腹がいっぱいということもあり、腹ごなしにここは歩いてみることにした。

猿田彦神社を出て伊勢磯部線を左に向かい、宇治浦田町交差点の信号を右に曲って23号線をしばらく真っ直ぐ進むと右手に神宮会館がある。そこからはもうおはらい町が近い。会館の向かい側からおはらい町に入ると、そこは丁度おかげ横丁で、もう時代劇の世界、一瞬で江戸の町に入り込んだような感覚だ。

 

少し行って常夜灯を右に曲がり内宮方面に向かうと、左右に様々なお店が並んでいて歩くだけで楽しい。後でゆっくりと見ることにしてまずは宇治橋に向かう。それほど広くない道路は観光客であふれており、時々肩が触れ合うほどだ。おはらい通りの端にある赤福内宮前支店を左に見てようやく宇治橋にたどり着くと、大鳥居が出迎えてくれた。まさしくテレビで視た風景だ。大勢の観光客が代わる代わる記念撮影に忙しい。

改めて紹介すると、おはらい町は、宇治橋のたもとから五十鈴川に沿って北へ約800m続く通りで、中ほどに、江戸から明治の街並みを再現したおかげ横丁がある。美しい石畳の通りには、たくさんの土産物店・飲食店や商家が建ち並び、参拝後の町歩きが楽しめる。お伊勢さん特有の切妻・妻入り様式の町並みが軒を連ね、また、神宮道場や旧慶光院客殿などの歴史的建造物などもあり、レトロな雰囲気がたっぷり詰まっている。

おかげ横丁は、おはらい町の中程、赤福本店前あたりの一画にある。江戸から明治期にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築・再現されており、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようである。約4000坪の敷地内には、伊勢志摩ならではの食べ物屋やお土産物屋が建ち並び、どのお店も魅力にあふれている。

宇治橋は、伊勢神宮の内宮の第1の大鳥居から五十鈴川にかかる橋で、全長101.8メートル、幅8.42メートル。純日本風のそり橋で、「日常の世界から神聖な神域を結ぶ懸け橋」と言われている。外と内に立つ高さ7.44メートルの大鳥居は、両宮旧正殿の棟持柱が用いられている。

伊勢神宮では、20年に1度の「式年遷宮」が行われる。それに合わせて、内宮の宇治橋も架け替えられる。そんな宇治橋のいつも歩いている部分の板は、長さ4.2m、幅36cm、厚さ15cmある、「ヒノキ」の渡り板を600枚をも、「すりあわせ」と呼ばれる、船大工のみに伝わる造船技術で並べられている。また橋脚は、水に強い「ケヤキ」を使用し、工法は3本立てで、合計13組で構成されている。

入り口側の鳥居
旧の外宮の御正殿の棟持柱を約2.5m削り、新しく鳥居として生まれ変わったのち、次の遷宮の時には、三重県桑名市の「七里の渡し場跡」の鳥居として使用される。

神域側の鳥居
旧の内宮の御正殿の棟持柱を約2.5m削り、新しく鳥居として生まれ変わったのち、次の遷宮の時には、三重県亀山市の「関宿」(東の追分)の通りの鳥居として使用される。関宿は、江戸時代の東海道と伊勢街道へ分岐する地点で、この地からが伊勢の国であるという象徴として、建てられているのだそうだ。

一礼して大鳥居をくぐると、ここで早くも左の2番目の擬宝珠が気になる。宇治橋の欄干の上にある16基の「擬宝珠」の中の1つで、第2の鳥居を背中にして左側手前から2番目の「擬宝珠」は、大勢の人に触られて光っている。その中には、宇治橋の守り神である饗土橋姫(あえどはしひめ)神社でご祈祷された「万度麻(まんどぬさ)」というお札が納められており、パワースポットと考えられているという。

饗土橋姫神社
伊勢神宮内宮の神域外、宇治橋から約200m(宇治橋前ロータリー、内宮駐車場を横切り、進んだあたりで徒歩約4分)のところに鎮座する「饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)」は宇治橋の守り神として知られている。もともとは、宇治橋のすぐそばでお祀りされていたが、明治40年(1907年)12月に、御幸道路の建設計画で、社地が道路と重なってしまうため、明治42年(1909年)3月に現在の場所に移転した。神名の「饗土」とは、悪いものが入っていかないようにするためのお祭り、「饗応の祭」を行う土地という意味がある。そのため現在でも、新しく宇治橋を建設する前の「宇治橋修繕起工式」や、宇治橋が完成したときに行う「宇治橋渡始式」は、こちらの饗土橋姫神社で行われる。

宇治橋の渡り方(参道の歩き方)
伊勢神宮に限らず、どこの神社でもそうだが、「真ん中」は通ってはいけない。その理由は、真ん中(正中)は神様の通られる道で、そこに立って邪魔をしてはいけないので避け、内宮では右側を歩くようになっている。内宮では右側通行だが、外宮や一般的な神社では左側通行となっている。

宇治橋の由来
御裳濯橋(みもすそばし)」とも呼ばれる伊勢神宮の宇治橋は、造営年は不明だが、800年~1192年代の平安時代に作られたのがはじまりではないかと言われている。また、五十鈴川の別名を「御裳濯川」と呼ぶため、この川にかかる橋という意味でそう呼ばれている。

「御裳濯」の意味
その昔、八咫鏡を携えて旅を続け、伊勢の地に神宮を建てることに決められた「倭姫命(やまとひめのみこと)」が、自分の着ていた「御裳」をこの川で洗われたことから、「御裳濯」と名付けられたそうだ。

一方、「宇治橋」の名前の由来は、「宇治」が「内」を指すことから、「内」宮にかかる橋で「宇治橋」になったとのこと。もともと、伊勢神宮のある現在の伊勢市は、宇治山田市と呼ばれ、宇治町は内宮の門前町、山田町は外宮の門前町として栄えた。

~つづく~