神宮参拝を思いついて伊勢街道について下調べを始めるまでは、恥ずかしながら白子のことを知らなかった。昔、名古屋に5年と少し住んでいたが、桑名、四日市、津、松阪について話すことはあっても白子という地名を話題にすることはなかった。

テレビ番組でブラタモリを視たのがきっかけとなり俄然好奇心が湧き、調べてみると、その昔、白子が伊勢における有数の港として重要な役割を果たしていたとは、しかも、松坂、田丸と共に徳川御三家のひとつ紀州藩領だったとは思いも寄らないことだった。

また、下調べで、白子は伊勢型紙の生産地としても知られ、これが地域の文化と経済に大きな影響を与えたということを、これも初めて知った。伊勢型紙は着物の染色に使われる伝統工芸品であり、その技術は現在も受け継がれている。また、冨久絵と呼ばれる縁起物の版画が作られ、伊勢参りの記念品として人気を博したそうだ。

そう知った以上一度は訪れてみたいと思い、今回の二度目の伊勢街道巡り旅のルートに加えたのだった。近鉄白子駅で下車、改札を出たところに地図があったので港への道を確認していると、女子高校生らしい二人がやって来て何処かお探しですかと聞いてくれた。

「伊勢型紙資料館とその先の港に行きたい」と言うと、親切に教えてくれた。若い時から、全く知らない町を訪ねるのが好きだったが、こういう出会いがあると心が洗われて益々旅が好きになる。尤も、線路は南北に走っており、海は東方向だから、地図を見なくても海に出られる自信はあったのだが…。

伊勢型紙資料館
小さな墓地の横の狭い道を抜けると丁度正面が資料館だった。
資料館の冊子によると、伊勢型紙がいつごろ、鈴鹿市の白子・寺家両町を中心に起こったのかは定かではないが、古くは「白子型紙」とも呼ばれ日本の染織工芸史のなかで大きな役割を担ってきた。

江戸時代、白子・寺家が徳川御三家の一つ紀州藩の領地に組み入れられたことにより、型屋は絵符・鑑札・通り切手などの特権が与えられ、また株仲間を組織して伊勢型紙は飛躍的な発展をとげた。

宝歴3年(1753)、両村には型屋は138軒あったといわれるが、そのなかでも寺尾斎兵衛家は型紙の生産から販売まで行い、行商範囲が東北地方から関東一円に及ぶ白子屈指の型紙問屋だった。建物は江戸末期に建てられ、往時には現在の施設の他に渋倉・道具蔵・型彫り場などがあり、広い敷地を占めていたことがうかがえる。

少し重い門を引いて開けると、そこには昔ながらの土間にかまどがいくつもあった。この建物は江戸末期に建てられたもので、型紙問屋として東北地方や関東一円まで広い範囲で行商を行っていた旧寺尾家の住宅とのこと。

館内は、主屋と離れ座敷、裏には倉があり、敷地全体に広い庭が繋がっていた。そして主屋にも倉にも多くの素晴らしい作品が展示されていた。信じられないほど緻密な作品は、職人の高度な技術の賜物だが、この技術をいかにして後世に残していくのか、その手立ては進んでいるのか_との思いで館を後にした。

白子港

紀州藩の新宮港については出身地でもあるので、木材やみかん、備長炭などを江戸に運ぶ海のルートとして栄えたことは知っていた。しかし、その途中にある白子港とも深い繋がりがあったとは知らなかった。

鈴鹿市にあった白子宿は、江戸時代に整備された伊勢街道の宿場町で、お伊勢参りの人々が休憩・宿泊する重要な中継地点として栄えた。伊勢街道の中でも比較的大きな宿場で、本陣・脇本陣・問屋場などの施設が整備されていた。江戸時代の風情を感じさせる旧家や、白壁の蔵などがあり、当時の面影が感じられる。商人や職人も多く住み、宿場町としてだけでなく経済・文化の拠点でもあった。

白子港は、紀州徳川の後ろ盾もあり、木綿や海産物の輸送拠点として機能し、関東へ積み出す流通拠点として栄え、地域経済を支える重要な存在となった。上流から流れる4本の川の流れを一か所に集めて港を造ったことが、その後の発展に寄与した。現在、白子港の原型は埋め立てなどで失われているが、地名や古地図を通じてその歴史を垣間見ることができるようだ。

~つづく~